現在発売中のAERAに『携帯オンリー デジタルプアの壁』というタイトルの記事が掲載されています。電車の吊り広告では、その見出しを
- PC使えず、閉ざされたケータイ世界に生きる10代20代
- 安易に日雇いバイト→下流のスパイラル
- 家庭と学校で決まるデジタル格差
としています。情報教育とは無関係ではないと思ったので月曜日に購入して中身を読みました。
記事の概要は、「電車の吊り広告の見出しにあったこと」が詳しく述べられているものでした。詳しく知りたい方は、ぜひ入手して読んでください。僕個人は、「特定の単語を含む検索ランキングを、クライアントがPCの場合と携帯電話の場合で比較したもの」がおもしろいと思いました。
また、記事を読んでみて、「ケータイばっかりでPCが使えないと、なぜデジタル格差の下側に行くのか」という観点で情報教育の重要性をわかり易く説明する努力が、私たち情報教育の研究者に求められているようにも感じました。
昨今、情報教育といいながらワープロ・表計算ばっかりでは駄目だという意見が多く聞かれていますし、僕もそういうことをあちこちで話をしていますが、「なぜ、ワープロ・表計算ばっかりでは駄目」なのかを理論化するのは、意外に難しいのです。ただ、「やがてPCはなくなり、コミュニケーションツールは携帯に一本化されるのだから、ワープロ・表計算なんてやらなくてもよい」という意見には反対です。
確かにコミュニケーションツールとしては携帯の方が優れているのだろうと思いますが、情報を処理・加工するツールとしての携帯電話には限界があります。未来の携帯電話がそのような機能を持つようになる可能性はゼロではありませんが、所詮、携帯電話にできるようなことは、携帯電話にできるようなことでしかないのです。(トートロジー入ってますね。) 言い替えるなら、パソコンのOSを含む携帯電話並の大きさの機械が出来ても、そのパソコンができることは携帯電話のユーザインターフェースでできることを越えない。携帯電話では文書作成も、会計処理も、統計予測もできない。その意味では、「携帯電話ではできない情報処理のリテラシー」を身に付けることが「誰にでもできることではない情報リテラシー」になるのでしょう。
また、記事が指摘しているように、この種のリテラシーの習熟度と、学習者(児童・生徒・学生)の家庭環境・学校環境の(金銭的な意味での)整備度合が相関しているようです。僕はこれを、「学校と家庭」という記事と同じ2つの観点で見るべきなのだろう思いますが、もうすこし考えてみると、こんなことなのだろうと思います。
- 保護者が教育にお金を払うかどうかと、お金を受けとった先の学校が適切な情報教育を行なっているかどうかの掛け合わせ。
- 保護者が家庭で情報教育に配慮しているかどうか。
そしてこの状況が、記事でいう「デジタル格差の下流スパイラルから抜け出せない『携帯ばっかりの利用者』」を救い出せない構造をつくり出しているのだろうと思います。
うん、やっぱり、初等中等教育から情報教育を削減しちゃ駄目です。
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