NIFTY-Serveと僕
あれは1986年(21年前)の夏の日、僕はまだ予備校生でした。既に先に大学生になった高校時代の同人誌仲間の友人の家に、夏期講習の合間に遊びに行ったところ、何故か、そこには音響カプラとパソコン(当時はマイコンとも呼ばれていた。機種は忘れました。)がありまた。友人は、「これで文字通信ができるんだよ」といいながら実演してくれた。「テレックス(←この当時で既に死語)みたいなもの?」と聞いた記憶があります。集まったみんなで通信中に受話器を叩いて文字化けさせて楽しんでいたが、僕はそれをとても欲しくなりました。文字コミュニケーションに強烈な関心があったからです。
それから9カ月が過ぎ、大学に入学し、アルバイトで資金を貯め、親に半額を越える援助をもらってパソコンを購入したのが1987年8月。ところが、当時僕がパソコンを買った店にはモデムの在庫が無く、モデムだけ遅れて届きました。AIWAの300/1200bpsのモデムです。モデムを手に入れたらすぐに加入申請したのが PC-VAN(NEC経営)と、NIFTY-Serve(日商岩井+富士通)でした。
すぐに通信にのめり込みました。いまでいうICTに関係させていえば「総務省のC」でも「経産省のC」でもなく「文部科学省のC」としてです。ただ、通信ソフトは高価なので、まず、N88-BASIC(disk版)を利用して自分でプログラムを作り、それを利用して通信をしました。中学生のころにプログラミングの基本はやっていた(といっても自己流ですが)ので、この通信プログラムもマニュアルを見ながら作成しました。まず、小さなプログラムから始めて、どんどん機能を追加していきました。色の指定方法を学んだのはこのときでした。文字コードを学んだのもこのときでした。RS-232C(AUX)割り込み、ファイルIOも、大域変数も、自前スタックも、ESCシーケンスも…みんなこのときに学びました。自作の通信プログラムは半年で1000行を越えるものになりました。
当時、PC-VANとNIFTY-Serveの両方に入っていた人は多かったと思います。といっても、僕が始めたころは PC-VANが3,000人、NIFTY-Serveが2,000人と言われていました。でも、当時は個人情報を簡単に検索できて、NIFTY-Serveの会員の多くが「使用機種:FM16β」や「使用機種:OASYS」としていた(つまり、富士通関係者)のを思い出します。純粋な会員は500人もいなかった(自分勝手な推定です。)はずです。
今朝、ニフティから「入会20年」をしらせるメールが来ました。
PC-VANとの会員獲得競争をひろげながら、日商岩井が株を手放して富士通の子会社になって、@niftyに名前を変え…。もう20年なんですね。最近、情報教育関係の研究をしていると、「実は、あの当時から、パソコン通信を使ってました」という人に多く会います。PC-VANは(会費がもったいないので)辞めてしまいましたが、NIFTY-Serveは残しました。特に、「Fナニナニに出入りしていて」という話題になると、皆さんいろいろ思い入れがあったようで、どんどん話(と酒)が進みます。いまでも、いくつかのフォーラムはオフミをやっているそうですね。(明るい話も暗い話もたくさんあるらしい。)
ところで先日の2007PCカンファレンス@北大では、隣にニフティ・ココログ担当の田代さんが座られて一緒に話(パネリスト発言)をしました。パネルのあと、控室でさらに濃い話をしました。別にニフティを賛美するつもりはないのですが、20年間使い続けてこれたという実績は、僕自身の言葉より多くのものを語ると思います。
でも、この業界、何かを失ったら、客が消えるのもあっという間。これからも頑張って欲しいですね。
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コメント
NIFTY-Serveが忘れられない人のために
http://oku.edu.mie-u.ac.jp/~okumura/blog/node/1331
投稿: okumura | 2007年8月13日 (月) 13:29