情報倫理の研究
僕は、学部学生の頃は数学科にいて、大学院も数学専攻に進み、今でも数学を大切に思っています。ただ、数学というのは究極の抽象化の上に成り立つ学問で、それは、独りの天才が独りで作り上げる理論で世界を構築するということで、まぁ、簡単にいえば僕には数学の才能は十分ではなかったようで、数学の研究は続けられなくなってしまったと、自己分析しています。
一方、大学院学生の頃に学費に困窮した僕は、比較的若い年齢で助手のポストを得たのですが、ちょうど助手だった1993年〜1996年の3年間は、大学ではWWWブームが巻き起こる直前で、みんな右往左往していました。個人的には、1995年3月に大学広報課の校費でサーバー(SS4)を買って、冷房がきついサーバー室で独りで Sun OS 4.1.x をインストールし、ncsa-httpdを入れ、http://www.waseda.ac.jp/ なんてページの最初のバージョンを、これまた独りで作ったりもしました。で、その当時、学生さんたちがいろいろやらかしてくれちゃった(まずいものをWWWで公開)おかげで、センターとしてマナー教育とか、HTMLのガイドライン作成とかを担当することになったのです。1995年11月には、Japan WWW Conference という日本で初めてのWWWの大規模カンファレンスがありましたが、その中で唯一、いまでいう情報倫理・情報モラルに関する発表をしたのは、僕でした。
そのころは、情報倫理・情報モラル、特に情報倫理と教育を結びつけた「情報倫理教育・情報モラル教育」では理系出身の若手は国内には僕しかいないという状況になってしまっていたようで、あちこちでこの手の話をしたり、共立出版なんてやんごとないところから本を単著で出させて頂いたりしました。また、Ethicompという情報倫理…というか、コンピュータ倫理の研究会でも発表とかして、いつのまにかこの分野についていろいろ考えるようになりました。
ところが、僕本人としては、2002年頃から、情報倫理・情報モラル関係の話があまりおもしろくないように感じてきたのでした。原因はいろいろありますが、手短に書くと「次々と来る新人さんが毎年毎年同じことを質問し、同じことで事件を起こし、いつまでも初心教育から脱せられない」ということだったと、自己分析しています。情報インフラに用いられる技術の変化や新サービスの登場に伴う教育内容の不可避な変化はありますが、手法としてある程度抽象化されてしまっているので、学問的な進化もあまり見つからないという状態が続いていました。
ところが、ここ1年ほど、これが面白くなってきたのです。面白さを再発見したのかもしれません。ここには「一つのきっかけ」は存在しませんが、いろいろなことが重なって見えてきた大きな問題点がわかってきたということです。
細かいことは、いつか本(たぶん、共立出版の本「情報化社会と情報倫理」の改訂版)にきちんと書きたいと思いますが、まとめるとこういうことです。
- 情報倫理・情報モラル・情報危機管理を、発達段階毎に再配置して適正に議論する。
- それぞれの教育(教える)/学習(学ぶ)の手法を分ける。
- 観点別評価に馴染むものとそうでないものをはっきりさせる。
- 時代による不偏性を持つものとそうでないものを分ける。
- 科学・技術の役割をはっきりさせて、そこから危機管理をちゃんと考える。
- 情報社会・情報化社会の機能を技術と経済と法の立場で考えられるようにする。
- 情報モラルの前提に、モラルの重要性を置く。家庭教育の重要性と、実際は機能していないという事実を前にできることを考える。etc....
最近目立つのは、コンピュータ・ネットワークの不適切利用で困りごとがあると、なんでも情報倫理/情報モラルの話題に引っ張り込んでみたり、小学生相手に大学生が学ぶようなことを(ひらがなに書き換えて)教えていたり、その逆で大学生相手に小学生向けの教材を使用していたり、30分もの長い長いビデオ教材を作ったり、実感が湧かないアニメだったり、危機感を感じない演習だったり…。それじゃぁ、何にも進歩がないじゃないですか。
情報倫理・情報倫理教育・情報モラル教育を、もう少し「一人前」の領域にしたいですね。
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コメント
懐かしい。
私もやらかしたというか、燃料を提供した一人でしたね。
それから少しして、作ろうとして作り上げられず旬を過ぎてしまったものは今はフォレンジックとして体系づけられていますね。
枝葉からボトムアップでもいいけど一旦抽象レベルを上げたところまで持っていかないと深まらないし広がらなくてやってる本人も閉塞感を感じちゃうんですよね。
投稿: みうら | 2008年6月11日 (水) 03:08
逆に私はここ数週間,無力感を感じています(;_;)
投稿: 落伍弟子 | 2008年6月13日 (金) 03:14
>みうら さん
あのころやっていた研究の目が、今、名前が付いた手法として研究されているという状態を見ると、なんとなく悔しいですね。僕もそれに似た経験があるので、理解できます。
>落伍弟子 さん
それは情報倫理の活動、あるいは情報倫理教育の結果についてですよね。で、その点での無力感は理解できます。僕は今は、学問的な意味での面白さを感じているのです。
投稿: たつみ | 2008年6月13日 (金) 08:28