昨年12月の奥村先生のblog記事の「長方形の面積公式を『縦×横』なら正解で『横×縦』なら不正解」という話に端を発した話題がありました。そして最近、それと同種に見える話題が、はてブで発生していて、またたくさんのコメントがついています。
この件について、まだ上手くまとめられてないのですが、2つ気になっていることがあります。
[1] たとえば横×縦を許容しない教師がいたら、そんなダメ教師の論法はスルーして、それに合わせた答を書いてあげるのが本当にできる子どもだとよめる意見がありました。それはその通りなのですが、その立場で見ると「教えてもらったらできる子ども」は救われないことになります。
「先生だって間違っていることもある。間違っていることを先生に指摘すると自分の身が危うくなる。それなら、あえて喧嘩するようなことをするな。」ということが『生きる力』の一つだとするならば、そういう「世渡り」は、小学生や中学生に教えるべきことなのでしょうか?「世渡り」に限らず、役に立つことしか教えない、さらに、役に立つこと以外を嫌う風潮が跋扈したことが、理科離れ・数学離れを招いているのではないでしょうか?「プロジェクトマネージメント」「世渡り」のような利害関係の調整みたいな話は、早くても高校程度からやって欲しいです。
小学校の理科や算数で学ぶことの多くは、すぐに役立つ知識ではないのですが、それを学ぶことで、将来、科学の考え方、論理的な考え方が身に付き、自然や数学への興味を涵養するのです。
ところで、教育課程審議会 第7回 総会議事要旨 1997/01/23を見ると、全日本中学校長会側の委員らしい人から
例えば数学の2次方程式が全員の生徒に解けるようになる必要があるか。中学校3年の内容の中には、生徒にとってついていけないものもあり、個々の内容については議論があろうが、思い切って削減する必要があるのではないか。
という発言があり、これに対して別の委員から
例えば物理にとって2次方程式は基本的なものであり、教科の内容を見直すときには、その教科だけでなく、他の教科とのつながりを考慮する必要がある。
という反論があります。元の委員が言いたいことは「これは今の子どもには難しい」ということであり、それに対する反論は「でも必要だからやるべきである」ということだとまとめることができるでしょう。
このやりとり、「わかりやすいか」vs「役に立つか」の戦いになっているように思います。僕個人としては「方程式の求解という行為は、直接に日常生活の役には立たないが、考え方の基本を身に付けるために学ぶべきであろう」、ぶっちゃけ、「数学や理科なんて、毎日の生活にすぐには役立たねぇんだから、そんな観点で議論するなよ」って思っています。そこを「役に立つかどうか」の観点で語るから、上に述べたような「世渡り重視」→理科離れ・数学離れを引き起こすことになっているように見えるのです。
[2] はてブ のコメント欄を見ていると、いかにもはてブ利用者らしいコメントがたくさん並んでいます。でも、それって日本の高校生や中学生、あるいはそれに関わっている人の極く一部の感覚に過ぎないと思うんですけど、どうなんでしょうかね?
僕が、「「授業の最適化」への私論」(2008年6月7日)で取り上げた【授業を最適化したい高校生君】と、それに祭のようにコメントをつけていった人達の感覚は、共感できるところも、そうでないところもあるけれど、いずれにしても「はてブ人」の集団、あるいはbloggerな集団の意見に過ぎないです。これを上手くまとめていく人が登場すれば、おもしろいなぁと思って注視していますが、一方で、あの話を進めていくと、ICT慣れができない環境(財政困難な自治体や教育を軽視する自治体に住んでいて、かつ、自宅にPCがない)の子どもたちとの教育格差は増大するでしょう。また、情報化の対象となる学習領域との向き不向きについても、はてブ人達は「気にしないでやっちゃえ」的な結論に走りそうで、読んでいて恐いと思いました。
それから、はてブに件の記事の最初を書いた人(そのblogの持ち主)は、自分にとって新鮮な発見だったから はてブ に書いたんだろうと思いますし、反応した人達も『祭』を作り上げて議論を楽しんでいたのだろうと感じましたが、件の記事は2008年7月3日に立てられていて、奥村先生のblog記事は2007年12月12日に立てられていたのです。ああ、歴史は繰り返す。
【追記】最後の「祭」の部分ですが、なんとなく「マネーゲームで原油高騰」みたいな話に似ている構造をもっているような気がしてきました。bloggerは議論ゲームをしていて、そのゲームのせいでトバッチリを受けちゃっている人がたくさんいる…ってことです。まだちゃんと分析してないのでなんとも結論付けまで至りませんが。
最近のコメント